金元弼(キムウォンピル)(文鮮明師の第一弟子)の証言

文鮮明師に対する証言

金元弼(キムウォンピル)(文鮮明師の第一弟子)の証言

中央前列:金元弼師  中央後列:文鮮明師
金元弼(キムウォンピル)師 略歴
1928.9  平壌で出生
1946.3  平壌師範学校卒業
1946.7  統一教会に入教
     弘益大学西洋絵画科受業
1962.2  全国巡回師室長
1972.9  本部教会教会長
1972.12 英・米国家庭教会責任者
1963 韓国・統一教会初代理事長
1991~94 日本・全国祝福家庭総連合会総会長
2010年4月7日(陽暦)に逝去(享年81歳)

文鮮明師の第一弟子
統一教会の草創期から文師のそばで教会の発展に尽力された。



北緯から来られた先生

 私が平壌で、初めて先生にお会いしたのは一九四六年七月です。先生はそのとき二七歳でした。

 聖進様(文鮮明師の長男)が生まれて二ヵ月が過ぎ、先生は食物を得るために田舎に行かれたのですが、その途中で「北韓に行ってみ言を伝えなさい」という神の指示を受け、すぐその場からそれに従って困難に耐えながら三八度線を越えて、一九四六年六月六日に平壌に来られたのです。そして1ヵ月後、先生は平壌にある聖山という山に登られた後に、私と会ったのです。聖山は平壌の多くの心霊的な人たちが登り、祈りを捧げる山なのです。

 そのとき先生が集会を開いた所は、二組の夫婦が住んでいる家でした。その方たちは、以前から霊的恵みの多い生活をしながら信仰の道を求めて来た人たちでした。先生はそういう家を探していたのです。

 そのとき、韓国は第二次世界大戦を中心として、日本人がキリスト教信者たちに東方要拝を強制したので、大部分の人たちは戦争が終わるまで教会を離れて、家庭で祈りの生活をしていました。

 先生も聖書をどれくらい読まれたことでしょうか。旧約の創世記から新約の黙示録に至るまで、線が引かれていないところがないくらい、黒く書かれてありました。

 多くの人たちは山や家庭で長い年月をかけて繰り返し祈っているうちに、霊界から多くの啓示を受けました。その啓示の内容は、今まで彼らが教会の牧師から教えられた内容とは全く異なるものでした。今までのイエス様の十字架は、人間を救援するための十字架で、イエス様は十字架で亡くなるために来られたと、牧師たちに教えられたのですが、啓示ではイエス様が十字架で亡くなるために来られたのではない、と教わったのです。
また、人間の罪悪の根本に対することもみな異なっていました。そしてその人たちは、私たちの原理の内容を部分的に啓示で教わったのです。神様が直接教えてくださるのであればすっきりするのですが、啓示と牧師の内容とでは丸っきり反対なので、どうしてよいか分からなくなってしまったのです。牧師にもう一度尋ねてみても、牧師たちはひたすら「それは誤ったことです。それは神様が教えてくださったのではなく、雑霊が教えてくれたのですから注意しなさい」と言うのでした。

 それで家に帰って再び神様の前に祈ると、神様は「牧師たちが誤っている」というのです。彼らは一人では聖書の解釈ができないために、新しい指導者を捜し求めるようになったのです。そのようなときに先生が北韓に来られたのです。
「真理と心霊で礼拝する南韓から来られた若い先生がいる」という噂は、たちまちめうちに広がりました。そして多くの人たちが先生のところに集まるようになりました。特に多くの霊的体験と啓示を受けて来た方たちは、封建社会の厳しい環境の中で育った夫人たちでしたし、生命をかけて真理を追究するために、家庭からの迫害などは既に卒業した人たちでした。

 私が先生に初めてお会いしたとき、先生は新約聖書のローマ書を二週間教えてくださいました。そのときは七月で暑い夏でしたが、狭い教会に多くの人たちがいっぱい集まって、み言を聞いていました。先生の若いときの情熱はすこぶるばかりで、講義が終わった後などは、韓国服は汗で絞るほど水が出たりしました。夏だからというわけではなく、冬でも綿入りの韓国服から汗が絞るほど出ました。

 先生はみ言を語り始めると、食口(食事を同じくする兄弟姉妹の意味)が用事があって立ち上がらない限り、いつまでも語り続けられるのです。また、先生がお話しされるときには、入神する人、予言する人、異言をする人、その異言を通訳する人もいました。そしてときには、スパイに来た人が異なる心をもって座ると、霊通した人が目を閉じたまま、だれにも気づかれないように、人の間を通って行ってその人の背中を打つのです。そうするとその人は悔い改めながら慟哭するのです。そのような雰囲気の中で、食口の大部分は火を受けるようになり、ある人は肩から火が入って来るのを感じ、また胸から火が入って来るのを感じたりして、熱いながらも平和を感じたりしたのです。

 先生は公席でたくさんお話をしてくださいますが、私席においては絶対にみ言を語らないのです。そして先生がみ言を語るようになると、心霊の役事が起こるのでした。そうなると声が大きくなり、その次には体がじっとしていられないのです。過去には神の心情を知らなかった人が、神の心情を体恤するようになったので、悔い改めながら泣き、泣いた後は心からうれしく、喜んで歌ったり踊ったりするので、礼拝は大騒ぎとなるのです。大の役事が起こることによって、長い間患っていた難病がきれいに治るのです。そして先生が聖書のみ言を原理を中心として解いてあげるので、多くの人たちが先生の回りに集まりました。ある人は霊界から「あの方こそ再び来られると約束された方だ」と教えられ、またある人は「若い先生が南韓から来られたが、行って会いなさい」という啓示を受け、先生を訪ねて来てみ言を聞いたりしました。集会をされるときは、先生自ら賛美歌、祈祷、み言、賛美歌、祈祷と最初から最後まで主管されました。

 礼拝が終わっても先生は食口たちがすぐ帰ることを願われず、また食口たちもやはりいつまでもいたいと思いました。したがって礼拝後は食口たちと一緒に食事をされるときもありました。ある食口は長い間胃が悪く苦労をしていたのですが、先生がご自分の残りをその食口に与えたので、その食べ物を食べたところ、すぐに治ってしまったこともありました。それで皆、先生が食事をされるときはいつも、「少し残して私にくだされば……」と願うようになったのです。そのため、そのときから教会の食事は、「薬ご飯」と言われるようになったのです。教会の食事は特別なものはないのですが、自分たちの家のよい食事よりも、皆教会に来て食べることを願ったのです。


  謀略と苦難の鎖

 先生に従う人たちは、大部分が熱心に信仰生活をしていた霊的な人たちや、以前既成教会の財政を支えていた人たちでしたので、既成教会の牧師たちが迫害をして来たのです。牧師たちは「青年が来て神学をするというので、彼がどれくらい知っているのか」と信者たちを連れて先生を訪ねて来ました。

 その頃の平壌には、立派に神学を勉強した牧師たちが大勢いました。先生はそのような牧師たちが訪ねて来れば、彼らが何を質問しようとしているのかを知っているばかりか、彼自身のことについてとか、またその牧師のみが知っている事実についても既に知っておられました。彼らが知りたかったことを先に語ってあげると「ありがとうこざいます。」と言って帰って行ったのです。

 その頃、不思議なことには、教会に来るようになってからは、とても仲のよかった夫婦が、夜近づくのがいやになってきたというのです。それは若い人ばかりではなく、年輩の人たちも同じであったというのです。二人が一緒に教会に出れば、自然に相談して静かになることができるのですが、どちらか一方だけが教会に出るので問題となったのです。教会に出る前よりも教会に出てからの方が、より精誠を尽くしてくれるのですが、夜は聖別生活を願ったので問題となったのです。以前は遅く帰って来ても特別なことはなかったのですが、私たちの教会に出るようになってからは、遅く帰って来ると疑いをもって問題視するようになったのです。

 私は叔母に伝道されました。叔父と叔母は夫婦伸が非常に良かったのですが、叔母が教会に入ってからは夫婦生活を拒むので、教会に入っていなかった叔父は、「先生が美男子だから自分から心が離れてしまった。」と思い、叔母を疑ったのでした。六〇歳の老人たちでさえもそのように思ったというのです。それで私たちの教会は『淫乱の集団である』という話が出るようになったのです。また先生は「魔術をする人だ」という噂が出たのです。一般の教会で一生懸命やっていた信者が、先生の話を聞いてからは牧師の言うことを聞かなくなって、教会を切ってしまい、すぐ私たちの教会に来るようになったからです。

 そのような投書が共産党局までどんどん入るようになったのです。約八○通も入ったのです。そのため先生は一年一〇ヵ月の平壌での牧会生活を終えて、一九四八年二月二二日、共産党に連行され、刑務所に入るようになったのです。

 先生が連行されて担当刑事たちは、先生が魔法を使うと思っているので、調査をする途中にも先生がトイレに行かれれば、魔法を使っていなくなるかと思い、常に二人の刑事がトイレまでついて行ったのです。また一人でおけば、いついなくなるか知れないので、先生を七日間眠らせないで、彼らは交替で眠りながら監視したのです。ところが先生は目を開けて眠ることができるのですが、彼らはそれを知らなかったのです。彼らがどれほど偽りのうわさを信じて先生に対したことでしょうか……。

 先生は「社会の秩序を乱した」という罪名で五年の実刑の言い渡しを受けました。そのとき、判事が判決文を読んだのですが、その内容の中には先生は『非常に無知な人たちに、虚偽捏造して財産を奪った』とされていたのです。その判事が判決文を全部読んでから、「ここに改める言葉がないか」と先生に聞きました。共産党統治下なので他の人たちは、何としてでも気分を害することなく、同情を求め刑が軽くなることを願って、自分に過ぎた表現をしても黙っているか「ありがとうございます」とか、「よろしくお願いします」というのが通例ですが、先生は絶対にそのようにはされず、「虚偽という言葉を除きなさい」と言われたのです。彼らは先生に、電気はいかに作るのかという質問を始めました。先生は電気発生の原理を説明されました。彼らがその質問をしたのは、『見えない電気も人が作り出したのに、なぜ存在しない神を存在するというのか』というやり方で、自分たちの幹部に教育されていたからです。

 先生が多くの教会指導者たちと共産党員たちが大勢傍聴する中で、最初に公判の席に出られ大きく背伸びをし、余裕をもって堂々と裁判を受けておられる姿に、平壌教会で私の見ることのできなかった面を見て、深く考えさせる所がありました。先生が実刑の判決を受けたので刑務所に移ることになって、法廷から出るときに先生は、片手に手錠がはめられていましたので片手をあげて、私たちに「私は今は行くが、再び帰って来るときまで元気で頑張っていなさい」という希望の暗示を与え、笑みを浮かべ頭を刈った姿で去って行かれるのを見送りました。

 先生はそのような中においても、真に希望に満ちておられたのです。後で先生が話してくださったのですが、刑務所に入られる前に「刑務所で待っている青年がいる」という啓示を受けたというのです。先生は五年の刑の言い渡しを受け、既決囚たちの待合室で待っていたのですが、そこで先生に判決を下した判事に会いました。その人が知らん顔をして通り過ぎようとすると先生は、「私を知らないのですか。」と声をかけると、「ああそうだったんですね。」と言ったそうです。彼が言うには、「過去のことに対しては人間的に皆許してください。上の指令によって、そうするしかなかったので理解してください。」ということでした。そして彼は食べ物を差し入れて立って行ったそうです。そういうことを見ても先生は、罪無き罪人となったことを知ることができます。


  刑務所で起きた奇跡

 刑務所では名前を呼ばないで番号で呼ぶのですが、そのときの先生の番号が五九六番でした。その番号は「オグルハダ(無念だ)」という言葉のように聞こえたりしました。先生は既決囚の部屋に入るようになったのですが、その部屋には一人の死刑囚がいました。その人は人民軍の高級将校で、日帝時代に日本の歩兵学校と士官学校を出た軍人で、解放後、人民軍司令官の部下となった人でした。彼はそのような立場にいながら、北韓の軍の機密を南韓に流したという罪名で、死刑宣告を受けて独房で死刑の日を待っていたのです。ある日夢か幻のように、自分の名前を呼ぶ声が聞こえて来たそうです。「不思議だ」と思っていると、また名前を呼ぶ声が聞こえて来たのですが、返事をしないでいると、三回目にまた名前を呼ぶので「はい」と答えると、白い姿の老人が現れて、「あなたは絶対に死なない。その代わりにあなたは南から来られた若い先生を迎える準備をしなさい。」というのでした。それは夢か幻のうちに起きた出来事でした。

 そのうちにある日、自分の名前が呼ばれ、もう死刑が執行されるのかと思って出てみると、以外にも死刑執行から三年刑に減刑されていたのです。彼の上官が外国の軍事会議に行っている間に起きたことで、上官が「自分が全体的な責任を持つから、彼を生かしてくれ」と言ったので、減刑されたのでした。そこで彼は嬉しさのあまり白い姿の老人の話を忘れてしまいました。ところが夢にまた白い老人が現れて、非常に怒った声で「君は私の話を忘れたのか。『若い先生を迎える準備をしなさい。』と言ったのに、どうしてそれを忘れたのか。」と叱り、老人は消えてしまいました。その次には彼の父親が現れて、「私がその若い先生のおられる所に案内してあげる。」と言って、彼を連れて行ったのです。そこで彼の父の後について大きな階段を上ると、大きな宮殿がありました。その中に大王様が座る椅子があり、父に「今私がその若い先生を見せてあげるから三拝をしなさい。」と言われ、父について三拝すると、父は「では頭を上げてみなさい。」と言ったのです。そこで頭を上げてみると、まぶしくて何も見えなかったので、また頭を下げていると、父が「では行こう」と言って、彼を連れて階段を下りて行くうちに消えてしまったのです。そこで彼は意識が戻り、夢か幻のうちに起きた出来事のようだったと言いました。その方が金氏なのです。

 そして金氏のいる部屋にちょうど先生が入るようになったのです。先生は学生時代から数回刑務所や警察に出入りされたので、そこの規則をよく知っておられました。そのために部屋に入るやいなや挨拶をし、便器のそばに行って座られました。ところが金氏は死刑囚として長くそこにいたため監房長を務めていたのですが、先生を見ると心がひかれ、自分のそばに呼んで何か聞いてみたくなったのです。そして先生にお話をしてくださいと言ったのですが、先生はなかなかお話をされませんでした。なぜならば多くの自由主義者の同志たちが、拷問をしても吐かない場合、共産党員を偽装させ監獄に入れて、同志であると思わせて、詳しい事情をともに語り合うようにさせ、秘密を摘発されて大変な目にあった例を先生は知っておられたからです。

 しかし先生は金氏の志を知って、「ロレンス」という人の名前を使って、先生が闘って来られた路程を金氏に語ったのです。それで金氏は白い姿の老人の言う通りに先生の弟子になりました。その後一ヵ月ぐらい経って、二人とも興南に移監するようになりました。興南収容所では食事がとても少なく、三ヵ月足らずで健康を害して多くの人々が死んでしまうのです。そのぐらい食糧が少ないのに重労働をさせられるので、なおさら衰弱してしまうのです。先生がこの人は七ヵ月くらいしかもたないだろうと思われると、本当にその人は七ヵ月足らずで死んでしまうというのです。

 ところが先生は、この与えられた食事で五年間を支えなければならなかったのです。ご飯を大きなスプーンで食べれば数回で終わってしまうので、ご飯一粒、一粒を数えながら食べることによって、たくさん食べたという心理的な助けを求めた人もいたそうです。それでも労働はきつく、お腹のすく生活が続くと体が弱って、ある人は食べている途中で倒れてしまうのです。そうするとそこにいる人たちの中で、一番初めに発見した人が食べ残しを持って行くのです。はなはだしいのは食べている際、石が混じっていて□から取り出すと、それを持って行って食べるほどでしたから、どれほどおなかがすいていたかを知ることができるのです。

 それで先生はいかにして少量の食事で五年間を持たせるかを考え、その食事の半分を分けて他の人に与え、残りの半分だけを召し上がったのです。先生はその半分を持って「これが私が五年間食べるものである」と考え、三ヵ月過ぎた後からは、その食事を全部食べるようにしたそうです。それは「これが私の分で、この半分は神が私に余分にくださるのである」と思い、二人分を食べていると思うことによって、お腹いっぱいになったと感じることができたそうです。

 先生は獄中ではほとんど話をされなかったのですが、労働をしていて昼間の時間に話をしてあけた人がいます。その人は朴という人で、刑務所に収容された二千名の罪人の総監督でした。その人の権限は大きかったのです。先生はその人に、洗礼ヨハネが使命を果たすことができなかったことについて、話をしてあげたそうです。その人は若いとき信仰生活をして、教会の助士(伝道師)まで務めた人でしたが、その後教会を離れてしまったそうです。ですから彼が先生のお話を聞くと大変反発し、その日には先生の身辺にも大きな危険が訪れるようになったのです。先生はたった一言「そうしてはいけないだろうに……」と言われ、彼から離れたのです。

 その夜彼は、苦痛を受けて眠れずにいると、白い姿の老人が現れ、「あなたは五九六番が一体誰か知ってて反対するのですか」と叱るのです。あまりにも苦しいので「すみません」と言って謝ると、体が楽になったのです。翌日先生は、同じような時間にまたその人に会って、さらに信じがたい話をされたので、彼は怒りが込み上げて来たのです。するとまたその夜も苦痛が始まり、白い姿の老人が現れて「君はどうして分からないのか」と叱ったのです。三回もそのような経験をしたため、彼は先生の二番目の弟子となったのです。彼は先生を知らなかったときには関心がなかったのですが、先生を知ってからは少しでも簡単な仕事を見つけてあげなければと思い、先生にそのことを話したのです。ところが先生はそれを拒み、反対に難しい仕事を自ら進んでされたのです。



  サタンの最後の試練に勝利されて

 サタンは、いろいろな形で一番近い人を通して試練をして来るのです。神によって導かれ、み旨を知って従って来た人たちが進めることならば、喜んで受け入れなければならないように思うのですが、先生はそうなさらなかったのです。ゝ 刑務所で最もつらい仕事は、日帝時代から蓄積された固い肥料の山を崩し、それを積み、さらに俵に入れ秤にかけて束ね、荷車に積むことでしたか、それは一般社会の人であれば、七ヵ月だけ仕事をすれば一年間生活できるくらいの給料を与えられるほどの重労働でした。

 その仕事をするのに一日の責任分担は、一〇人が一級となって八時間に一三〇〇俵を積まなければならないのでした。一俵の重さは四〇キログラムでした。そこでは五段階あって、各々仕事に従って適当な人員が配置されて仕事をするのですが、先生とペアになった人が、肥料を計りの上に上げなければならないところ、その人が仕事をしなかったので先生は一人でされるようになったのです。

 八時間に一三〇〇俵をさばかなければ全部の食事の量が減らされるのです。それでいくら体が痛くとも食事を半分に減らされるのがいやで、仕事に出て行かなければなりませんでした。肥料を入れる袋は俵でできているために、長く続ければ皮がむけて肉が剥き出しになり、擦り減って骨が出て来るようになるのです。そして骨が見えるようになったところへ硫酸アンモニアが染みて、その痛さは言葉で言い現せないほどでした。

 重労働のためパンツ一つでやって、冬でも汗が流れる中て、先生は夏にマラリアにかかって一二日間苦労されました。しかし他の人たちはご飯を食べるために、痛くても出掛けたのですが、先生はこれは堕落の報いから来るものであると思われ、それを感謝して受け、過去の義人聖人たちがみ旨の道を歩み、悲惨に死んで行ったことを思い、彼らの恨みを晴らしてあげなければならないという一心で、その苦難を耐えたのです。

 囚人たちは、朝工場に行くときは、皆顔を上げてはならず、下を向いて八人が行列を作って手をつないで行かなければならないのです。そして彼らは市内を過ぎて工場に入るのです。市内には一般社会の人たちがいるからそうするのですが、そのようなときは□からツバが出て来るし、歩くときは足を踏み外して倒れてしまうのです。こうして獄中生活二年八ヵ月の間に先生は毎年多くの囚人たちの中から選ばれ、特別労勤賞を受けられました。これはサタンが仕方なく「自分たちも先生に見習わなければならない」ということだと私たちは解釈するのです。

 そのような困難な中でも先生は、知らない人たちが先生のためにどんどん食べ物を送ってくれるのでした。囚人たちの先祖や、あるいは他の霊人たちが現れて、「どこそこの部屋にいる五九六番に何と何とを持って行って差し上げなさい」と知らせて来るのです。それで先生は全く知らない人から食物をしばしば受け取ったのです。また先生は回し部屋の同僚に分けるために、平壌に食物や服、布団を送ってほしいと手紙を書かれたのです。ですから私たちが面会に行ってみると、服を差し入れたのに先生は、いつもつぎあての古い服を着て出られるのです。私たちが送った物はすべて同僚に分け与えられていたのでした。

 刑務所では食事が少ないため、社会の世論があったので、外から親戚や父母たちが差し入れするのは許可していたのです。獄中では食べ物が差し入れされると、特に他の人が食べてしまわないように、その人は眠るときもそれを枕にして眠るのです。

 しかし先生は部屋の隅において、食べるときにはいつも皆で分けてあけました。ですから先生の食べ物は先生の物でも、そこにいる皆が自分の物のように考えていました。それがどれくらい残っているか先生はよく知らなくても、他の人たちはよく知っていました。その人たちは単にお腹が空いていたためでした。だからだんだんそれが減ってなくなっていくと、寂しくなるのです。ところがある日、あるはずの分量がずっと少なくなっていました。それを誰が食べたか皆は知っていても自分のものではないので、叱り付けることもできずイライラしていました。そこでその人たちは先生のところに来て「あれを食べたのになぜ怒らないのですか。私たちが一発殴ってやるから許可してください」と言ったのですが、先生は何も言わずに黙っていました。

 先生は翌日の夜、皆を集めて残っている食べ物を部屋の真ん中に置いて、その人を呼んで器を渡しながら「君が食べたいだけ取りなさい」と言われたのです。彼は以前に黙って取って食べたため、頭を下げただけで手を出すことができませんでした。すると先生は器に食べ物をいっぱい入れてその人に与えたのです。


  面会に来られたお母様

 先生のお母様は、興南から一五〇里ほど離れたところに住んでおられました。大家族の世話をしなければならず、畑の仕事もしなければならなかったお母様でしたが、息子が苦労しているという便りを聞いて、交通の不便なところから遠い道のりを、食べる物と着るものを準備して、先生を訪ねて来られました。お母様は先生を本当に愛しておられました。

 先生が日本で勉強されている時の話で、こんなことがありました。先生が乗ることになっていた船が途中で沈没し、全員が死んだという事件が大きく記事となって報道されると、お母様は先生の安否を気遣って、それを確認するために二〇〇里の道のりを釜山まで来られたのですがどうしても消息を知ることができなかったので死んだものと思い、通告しながらスカートが破れ、足が血だらけになって、膿んでしまってもそれに気付かず家に帰って来られたそうです。

 しかし先生はお母様に電報を打ってから、その船に乗るために家を出ようとしたのですが、足が地について離れなかったので「何かが起こる」と思い、その船には乗らなかったのです。ところがお母様はそれを知らずに、とても切ない思いをしたのです。

 興南を訪ねられたお母様の目には、成長した息子であっても先生のことを子供のように思っていました。ですから、髪を切られ囚人服を着ている先生を見ると心が痛くて涙を流されました。その時先生は、泣かれるお母様を見て「息子が苦労して可哀想に思って泣くのなら、早くお帰りになってください。そしてもう二度と来ないでください」と言いました。先生が願っておられたのは、お母様が涙を流されたとしても自分の息子が神と人類のためにこのように立派に働き、刑務所に入って苦労をする私の息子は、本当に立派であるという意味からの涙なら、その涙は受け入れるというのです。

 お母様の心はますます痛み、先生のために食べ物を送れば、それを先生は一人で食べるのではなくみんな分けてあげるので、またがっかりするのです。そのお母様が故郷に帰られる途中、私に「先生が刑務所から出て来たら二度と手離したくない」とおっしゃいました。罪がないのに学生時代から苦労する先生を見てお母様は本当に胸を痛くしていたのでした。故郷の家が見える遠い所から泣きながら、もう一一度と行くまいと思いつつも、それでも時間を割いて服を準備し、食べ物を作って訪ねたのです。

 天からいろいろな人に啓示がおりて、先生の弟子となった人が一二人ありました。その中に、北韓の五道(五県に当たる)のキリスト教連合会の会長を務めた有名な牧師がいて、その人は一生、先生に侍って働く決意をしていました。ところが彼は、興南の刑務所から一理離れた所にある分所での仕事が易しいといううわさを聞いて、そちらに行きたいと言うのです。先生は行かないように、とおっしゃったのですが、その牧師は今やっている仕事は力に余ると言って、自分の意志で移ってしまいました。しかし、弟子の金氏が、自分もそちらに行きたいと先生に話したら、先生は金氏には行っても良い、と許可されました。そして、[君がそこに居て、何か変わったことがあったら脱出せよ’と言ってくださいました。

 その後、その牧師は、動乱が起きると処刑されてしまいましたが、金氏の方は、処刑場へ行く途中脱出して無事南韓まで逃げてくることができたのです。


  勝利された先生、昔の食口を訪ねて

 先生がおられた興南一帯は、ちょうど工業団地でしたので、六三一五動乱が起きると、攻撃の目標となりました。爆撃があると幹部たちは、囚人たちを放置したまま防空壕に避難してしまいました。あとに残された先生はここにいては危ない、と直感され急いで場所を移動されました。直後、そこにIトンぐらいの爆弾が落ちて、危うく命拾いをされました。先生は他の囚人たちに、「私たちを中心として直系一二メートル以内にいさえすれば爆弾から免れる」とおっしゃったので、先生の回りに集まって来たそうです。

 そのように緊迫した状況におられながらも、先生は常に将来のことを思い、計画されておられました。

 今や戦況が変わってくると、興南刑務所では、囚人たちの処刑が始まりました。囚人たちは気付かれないように三日分の食糧とシャベルを持たせて、ある部隊に移動するように見せかけて裏山に連れて行き、シャベルで土を掘らせて、そこで処刑するのです。しかし先生は、それは処刑に違いないとすでに気付いておられました。いよいよ、先生のおられる監房にもその順番がやってきて、何人かが呼ばれて行きました。ところが、それを最後に、国連軍が上陸して来たので、先生は奇跡的に脱出することができたのでした。それが、一九五〇年一〇月一四日のことです。

 先生の二年八ヵ月の刑務所での生活は、サタンが全く讒訴できないものでした。ですから、先生の歩まれる道は、天が助けざるを得ない、そして霊界が共助せざるを得ない道であると私は思うのです。

 先生が獄中におられるときに、平壌に残っていた食□が天の前に精誠をこめて先生に侍ると誓いながらも、一人また一人と遠ざかっていくのを、先生はご存知でした。どんなにか寂しいお気持ちであったかと思うのですが、先生は変わらず、一日三回ずつ、平壌の食口たちのために祈ってくださいました。

 先生は獄中を出られてからは、直接彼らを訪ねて回られました。また先生が直接会うことができないときには、人を代わりに立ててでも会おうとされました。しかし、先生は、平壌から三日あれば行ってこられる距離に故郷があるにもかかわらず、四〇日の間、ついに一度も行かれることはありませんでした。先生は、こんなにみすぼらしく、また天を裏切った立場である私たちの方を愛してくださり、ご家族を犠牲にしてまで訪ねてくださったのです。しかし、先生が獄中から出られたとき、初めに集まって来た食口は、わずか三、四人しかいませんでした。

 先生は、「刑務所で名節がくると、これで餅を作って食べたんだよ」とおっしゃりながら、袋から米の粉を出して、水で固めて、私たちに食べさせてくださいました。刑務所の中ではもちろんのこと、平壌までの一〇日間の道のりでは、どんなにか貴重な食糧であったでしょうに、先生は食べるものも食べず、あるときは腐って凍りついた物を召し上がりながらも、私たちのために、お土産として、持って来てくださったのでした。

 先生より先に平壌に着いていた朴正華氏は、獄中から出たら、私たち食口三〇〇名が住める大きな家を用意する、と先生に約束していました。ところが朴氏は、刑務所から出たあと誤って撃たれて足の骨を折ってしまい、平壌の姉の所に治療に来ていたのです。先生は心配して彼の故郷にまで問い合わせて居所を調べ出しました。それで、私が彼を連れて来て先生に会わせ、再び彼の姉の所に送って行ってあけました。


  出エジプトの路程に立って

 先生が食口たちを訪ねておられる間、すでにて一月四日になっていました。戦況は中共軍が荷担するとまた逆戦となって、国連軍が南下し始めました。その後「全員避難せよ」という指示が下り、自由を求める人々は、北から南へどんどん非難し始めました。

 皆が次々に非難する中で、先生はあるお婆さんの食口を最後まで探しておられました。そのお婆さんは、四〇歳になるまで字が読めなかったのですが、神の手が現れて、聖書の文字を一つ一つ指しながら読み方を教えてくれたのだそうです。またいつも祈りに行く場所にある老木が「お婆さん、倉庫でもいいから、私を使ってください」と頼んだり、また高い山に登ろうとすると、風がフイと吹いて、お婆さんを持ち上げて山の頂上に置いてくれたりするのです。その方は、もともと、キリスト教が入ってくる前に、土俗宗教を信じていたのですが、ある日神様が現れて、「これからはその宗教はそれくらいにして、私の導く教会に行きなさい」と教えられて、イエス様を信じるようになりました。そのお婆さんが先生に会ったのは七六歳のときで、先生を真のメシヤと信じ、いつも先生のそばに座っては、先生の服を触りたがっていたのでした。しかし、一二月四日、先生がやっと探し当てられたそのお婆さんは、もはや死ぬ寸前のような状態でした。私が先生の代わりに、そのお婆さんはもうろうとした意識の中で「ウン」と返事をしました。このことを先生にお伝えすると、先生は初めて「ではこれから避難しよう」と言われ、やっと出発することになったのです。

 そうこうするうちに、平壌の人たちは、皆避難してしまいました。ところが先生は、そういう一刻を争う時なのにもかかわらず、今度は、「君、これから朴正華氏を連れて来なさい」と私におっしゃるのです。それで私が朴氏を訪ねると、朴氏の家族は「自分たちの避難にさしつかえる」と言って、自転車一台、大一匹を残して、先に発ってしまったと言うのです。取り残された朴氏は、先生までも自分を捨てて行ってしまったのではないかと思って泣いていたので、先生のお気持ちを知って、あまりの嬉しさにどうすることもできないほど喜びました。早速、彼を自転車に乗せて先生の所に連れて行くと、先生がその自転車の後ろを押して行かれることになり、私はその後から荷物を背負ってついて行きました。それは雪の降る寒い冬の日でした。

 こうして、私たちの避難生活は一二月四日から始まりました。あまりに急いだので、婦人たちは残して男子だけが避難したのですが、そのときは、数日後にはまた帰って来れると思っていたのです。


  死んでも共に死に、生きても共に生きよう

 大道は、作戦上国連軍が遮断してしまったので、私たちは山道を歩かなければならなくなりました。中共軍の介入で砲声が耳元に聞こえ、避難民と国軍が皆くだっていったので、人々の心は非常にあわただしくなりました。そらなとき、坂道を越える前に休んでいると、朴正華氏が、「先生、このままでは私のために二人共死んでしまいます。私を残して先に行ってください」と言うのです。すると先生は「神のみ旨で因縁をもった私たちは、死んでも一緒に死ぬし、生きても共に生きなければならない」と言われ、私たちはその言葉に希望を得て、再び立ち上がるようになりました。

 私たちは黄海道青丹(海州と延安の間)にある龍媒島から船で仁川に直行するために、八里の道のりを休まず歩き、青龍半島南端にある確山里村に着いたのは、早朝二時か三時くらいでした。そこから龍媒島までの一里の泥道を、寒い冬、ズボンをまくり上げて、私は自転車を背負い、先生は朴氏をおぶって渡り始めました。電気がないため暗く、海の向こうの島の、綿に油をつけて灯したかすかな明かりを目標にして進みました。満潮になると渡れないので、引き潮のとき、急いで渡るのですが、引き潮のときでも、水がところどころにたまり、また砂でなく泥なのですべりやすく、足を吸い込まれそうで非常に危険でした。また、朴氏はギブスをした足をつっぱっているのでおぶって歩くのは大変なのですが、途中一度でも倒してしまえば医師もないので治すこともできず、そういう状態の中を、やっとの思いで渡りました。しかし着いてから、乗ろうと思っていた船に乗ることができず、仕方なく再び確山里に戻ることになったのです。

 お腹は空き、寒い中を、また海を渡らなければならないことを思うと、朴正華氏も私も非常に心細くなったきました。すると先生は、それに気付かれて私たちに「今日私たちを接待してくれる良い貴人に会うだろう」とおっしゃいました。その話にとても元気を得て、再び海を渡ったのです。村に着いたときは、すっかり日が沈み、一段と寒くなっていました。ところが、その村を守る人たちが、先生を人民軍の敗残兵と間違って殴りつけてきました。南韓の軍人は髪が長いのですが、人民軍は、髪を短く切っていたのです。それで先生は、荷物の中から聖書を出して、自分は牧師だが刑務所で髪を切られたのだと説明しました。村人たちは、先生が本当の牧師であるかどうかを知るために、聖書を開いて、聖句の内容をいろいろと尋ねましたが、先生は聖書を見もしないですべて話されたので、やっと帰してくれました。途中、道端の明かりを訪ねて戸をたたくと、若い夫婦が迎えてくれ、良い部屋と暖かい食べ物を用意してくれました。

 次の日は、“昨日先生がおっしゃった言葉の通りだ”ということに気付きました。昨日、私たちは弱い心をもってしまって先生に「ご苦労さまでした」と慰めの言葉が言えなかったので、あのような言葉を先生に言わせてしまったということを悟ったのです。その「良い貴人」に会うには会えましたが、先生が村人たちから殴られたことを考えると、私たちが受けなければならない鞭を、先生が代わって受けられたのではないかと思うのです。このようなことをみるとき、すべての恵みは、先生がその苦難を受けた代価として私たちに与えられる、ということを悟るようになりました。

 朝は早く起きて食事をとるとそのまま歩き、陽が暮れて方向がつかめなくなると、どこの家でも構わず入ってご飯を作って食べる、これが避難の日課でした。あるとき、夜明け前に空き家で休むことになり、ご飯を作るための薪を探したのですが見当たりません。冬なので乾いた草もなく、その家でも壊さない限り木がないので困り果ててさまよっていると、我知らずその村の共同墓地に着いていました。ふと見ると両側に木のついたかますのタンカがあったので、喜んでその木を引っ張ってきて、火をたき始めました。ところがそのタンカはその村の死人を運ぶのに使われたものだったのです。先生と朴氏は寒い部屋の中に座っておられたのですが、先生が部屋の中から戸も開けずに、私に「何を燃しているのか」と尋ねられました。それで訳を話すと、先生は「どんな木でもすべて燃すのではないよ」とおっしゃいました。先生は部屋の中におられながらも、不浄なる木を燃やしていることを知っておられたのでした。

 あるとき、一日中歩き続けてある大きな家に着くと、多くの人たちが眠っていました。私たちもそこで食事を済ますと、夜の一一時になっていました。疲れて眠りがおそって仕方がないので先生に、ここで休んでいきましょうとだだをこねると、大体は先生は休んで行かれるのに、その日は「行かなければ」とおっしゃるのです。それでも私たちはだだをこねて、三度も頼んだのですが、先生はなかなかきいてくださらず、行こうとおっしゃるのです。それで、とても寒い夜でしたが仕方なく先生について出発し、夜中の一時頃、道端にある家に入って眠り、翌日の朝早く再び出発しました。

戦火を逃れて大同橋を渡る人々 
ピューリッツア賞受賞した写真

 しばらく行くと、かちかちに凍った大きな川に出ました。朴氏を自転車に乗せて氷の上を歩いていると、空をたくさんの飛行機が行ったり来たりし始め、砲声や奇襲射撃の音が聞こえてきました。中共軍が近づいて来たらしく、振り返ると川の向こうでは、国連軍が避難してくる人たちを中断させ、最後の戦線を守るためのバリケードを構築していました。そのときに初めて、昨夜先生が休まず行かねばならないとおっしゃった意味を知ったのです。私が先生のみ言を恐ろしく思うのは、そういう所に理由があるのです。


  釜山に到着する

 二カ月ほど杉田頃、朴氏の足がほとんど治ってきたので別れて、先生と私だけが釜山に向かうことになりました。途中、蔚山で初めて汽車に乗ることができました。

 釜山に着いた最初の夜は、先生が昔、ソウルで日曜学校の先生をしておられたときの弟子の家に休まれました。私は他人の家で共に世話になることができず、ある食堂に就職して、そこに寝泊まりするようになりました。その後先生は、日本で一緒に勉強していた、厳徳文氏の家に落ち着かれる落ち着かれることになりました。厳氏は先生とは学生時代の同級生であり、互いに友達のような間柄で、先生は厳氏にこれからの理想世界に対するいろいろな話をしてあげました。すると彼の夢にイエス様の妹が現れ現れ、「私はイエス様のことで母に恨みがある、その恨みを解くには、大きな金庫があり、その中に小さな金庫があり、またその中に更に小さな金庫があるが、それを開けなければならなない。その鍵を持っている人は文先生だけである」と言うのです。厳氏は仏教徒だったので、イエス様に妹があったことも知らない人でしたが、それでも先生にいろいろと話を聞いて、全く正しく侍る弟子になりました弟子となりました。

 また、先生は金氏という弟子の家に二週間くらい留まられたこともありました。金氏は、北韓の獄中での最初の弟子でしたが、その後結婚して、小さな家に住んでいました。

 先生は、私が働いている食堂に、時々厳氏や金氏をお連れになって紹介してくださり、また私のことも二人に話してくださいました。そうすると食口がとても多くなったような気がして、私は本当に力が湧いてきたものです。その頃先生は、あまり満足に食事をしておられないようだったので、食堂の主人に、私の尊敬する方なので昼食を接待したいと頼むと、承諾してくれました。そこで部屋に先生をお連れしてお膳を整えると、すぐにご飯がきれいになくなってしまいました。それでもう一杯差し上げるとそれもすくになくなってしまいます。その頃の先生は、召し上がるものがなくて、波止場に出かけて夜は仕事をし、昼には暖かい日の当たる所で休む、という生活をされていたのです。


  原理を執筆される先生

 そのうちに小さな部屋が見つかったので、先生と二人で生活するようになりました。先生が横になると、頭と足が壁にくっつくほど狭く、また厳氏が来ても休む場所もありませんでした。

 その後私は米軍部隊で働くことになりました。

 その間、先生は原理を執筆され、私が帰って来るとそれを私に渡してくださるので、読んで差し上げると先生はじっと聞いておられました。

 先生はよく山に行って瞑想したり、歌を歌ったりされました。また厳氏には歌を歌わせて、それを聞くのを好まれました。そして暇さえあれば山から石を拾ってきて、土を運び、家をつくる準備をされました。

 その頃、私は米軍部隊でいろいろなペイントの仕事をしていました。ある日、私がいたずら半分に絵を描いていると、先生がごらんになって、これからどんどん絵を描くように、とおっしゃるので不思議に思っていました。するとあるとき、同じ職場の人が私に、絵を描いてみないかと言うのです。その人は米軍の婦人とか女友達の写真を描いてあげていたのですが、私にもその注文を取ってあげる、というのです。最初の仕事は黒人の写真でした。私は黒人を見たことがなかったので、どんな色を入れたらよいのか迷いながら、とのかく四時間半かかってそれを仕上げました。私はそれでお金をもらおうという考えはなく、ただ悪口さえ言われなければと思っていたのですが、意外にもその人は良く描けたと言ってお金をくれ、更に注文も取ってくれました。それで私は力を得、先生のお言葉通りに絵を描くようになったのです。その後、食口の数が増えれば増えるほど、注文も多くなっていきました。

 私は毎日、五時に仕事を終え、注文を受けて帰って来て、それから絵を描き始めるので、いつも終わるのは午前零時か一時頃でした。先生は私が帰る前にお場に行って必要なものを買って、絵を描く準備をしてくださいます。そして、私が描き終わるまでそげて見守っていてくださり、そのあと私が休むと、先生はそれを朝持って行けるように、切ってまるめて準備してくださるのです。そのうちに、先生も色を選んだり、背景を描いてくださるようになり、またしばらくすると、私は顔だけ描けば先生は服や髪の毛や背景をぬってくださるようになりました。そうして、一日に一五枚、二〇枚と注文が来て、時には午前四時、五時までかかることもありました。

 時々おばあさんの食口が訪ねて来て、疲れるので横になろうとすると、先生は「このように苦労するのに眠ってはならない。眠りが来たら壁によりかかって寝なさい」とおっしゃいました。仕事をする人は仕事に酔う仕事に酔うのでそれほど疲れを感じませんが、そばでただ見ている人は、大変だったろうと思います。そのような中で、先生は絶対に私の前から離れないで見守っていてくださったので、私は疲れても耐えることができました。

 私は働いたお金は全部先生に差し上げました。すると先生は、一ヵ月間食べる米と燃料、石油、そしておかずとしては煮干しを先に買っておかれます。私は部隊で食事をしたので、先生はご自分でご飯を炊いて召し上がることが多く、先生は女の人よりも上手に食事をつくられました。先生は貧しい修道者たちに米や服を買ってあげたり、またお金をあげたりして、そのお金はすべて使われるようでした。

 ある日先生が、「あんたが持って来たお金を全部使った」とすまなさそうにされ、誰々に何を買ってあげたとか、何にいくら、本を買うのにいくらかかったと、私に報告をされました。先生がそのお金をどう使われようが、いったんお捧げしたものだから私には関係ないのに、かえって私の気持ちを案じてくださる先生の姿に、自分の足りなさを感じ、もっと尽くさなければと心の底から思いました。

 私の帰りが遅くなると、先生は路地まで出て来て、待っていてくださいました。また私が疲れて眠ってしまうと、先生はよく泣き声の混ざった声で歌われたり、祈られたりされました。あるときには、まだ暗いのに私を起こして山に登り、岩のあるところで、先生が「あんたはここで祈りなさい、私はあそこで祈るから」と言われて、一緒に祈ったこともありました。


  永遠なる父母の愛

 ある日の早朝、先生は突然私を起こして「早く明かりをつけなさい」とおっしゃいました。私がランプをつけると先生は、鉛筆と紙を用意させて「私の言う通りに書いておきなさい」と言われました。私たちが何か文章を書くときは、途中で考えたりしますが、先生は始めから終わりまで休まず続けられました。それは再臨論に関するもので、原理原本はほとんど先生の筆跡ですが、その部分だけは私の筆跡になっています。

 先生は神のために愛して、それでもなお不足を感じられる方です。だから私たちも、いつも不足を感じながら神と先生を愛し、またすべての人々の前には愛を与え、また与えながらも自分の足りなさを然している、そうすることによって初めて、天の誇りうる人となることができるということを信じます。




証言 信仰手記 第1集より

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