文鮮明師が演出したレーガン 地滑り的大勝利
共産圏の伸張を許したカーター”人権外交”
カーターが持ち出しか政策は「人権外交」(人権重視政策)として評判を呼んだ。
ところが、彼は人権を無慈悲に揉躍する共産主義に対しては寛大な態度をとり、これを等閑視(とうかんし)する一方で、自由主義陣営内の人権問題には熱心だったために、反共を国是とし、共産主義に呑み込まれまいと必死にもがいていた諸国家が、カーターの犠牲となった。その中の一つが韓国であった。
「共産主義の脅威から民主世界を守れる国は、アメリカ以外にない」と固く信じていた文鮮明先生は、カーター大統領の政策に全面的に挑戦した。
カーター大統領が主張する在韓米軍撤退方針に対して、正面から反対に出られた。
その当時、私は日曜日ごとにニューヨークのベルペディア世界宣教本部で文鮮明先生の説教を通訳していた。
その説教の半分以上はカーター大統領の政策に対する痛烈な批判であった。
「ここにアメリカCIA (中央情報局)要員が来ているなら、私の言葉を正確にカーター大統領に報告しなさい。
どうして共産主義の人権弾圧が目に入らないのか。
カーター大統領の人権外交の大義名分の下で大手を振って歩いているのは、ソ連を宗主国とする共産世界ではないか。
もし力―ター大統領の政策をその通り実行して数年が過ぎれば、もはや世界赤化は必至である。
純真なカーターは神様を信じるキリスト教徒でありながら、神様の最大の怨讐になろうとしている。
カーターの下で滅んでいくアメリカを、どうして私か座視できようか」
文鮮明先生のカーター攻撃は辛辣で鋭く、容赦がなかった。
これがカーターの耳に入らないはずがない。
ここから、アメリカのリベラルな政治家と政府による統一教会打倒の攻撃が本格的に始まったのである。
この時既に、カーター政権は文先生をどんな嫌疑でもいいから罠にはめて、刑務所に閉じ込めてしまいたい衝動に駆られていた。
振り返ってみると、1974年7月に
文先生がコネティカット州ダンベリー連邦刑務所に収監される運命は、カーター政権の時から始まっていたことが分かる。
では、どうして文鮮明先生は、この決死的な抗争をカーター政権との間で展開しなければならなかったのか。
そのいくつかの理由を挙げてみよう。
1979年7月、内乱状態にあった中米ニカラグアでついに左翼革命が起こった。
共産主義を信奉するサンディニスタ民族解放戦線(FSLN)が革命政府を樹立し、キューバに続いて2つ目の共産国家が大陸に拠点を確保することに成功した。
サンディニスタ政権はソ連、キューバと手を組んで、近隣のエルサルバドルや中米各国の共産ゲリラに武器援助を与えて、中南米の平和を破壊した。
1979年3月、イランに革命が起こり、親米反共のパーレビ王朝が倒れ、反米的なイスラム根本主義のホメイニ政権が樹立された。
同年十二月には、およそ十万のソ連正規軍が一気にアフガニスタンに侵攻し、ソ連の傀儡であるカルマル政権が樹立された。
この事件は確実にカーター大統領の後頭部を打った。
カーターは、よもやソ連がこれほどあからさまな侵略に出てこようとは夢にも思わなかった。
しかし、気付いたときはもう手遅れであった。
1978年12月から翌年1月にかけては、ソ連の支援を受けたベトナLへ共皇軍が、中共(中国)側に立ったカンボジアに侵攻して親ベトナム政権を樹立した。
アフリカでは、1975年にアンゴラでソ連が支援するアンゴラ解放人民運動(MPLA)が内戦に勝利し、社会主義政権が樹立された。
容共的なカーター政権が発足してからは、時を見定めたように”ソ連の先兵”キューバの活動が活発になった。
キューバはアンゴラ、エチオピア、モザンビーク、コンゴをけじめ十数力国に兵員や部隊を派遣して、”革命の輸出”に狂奔した。
アラビア半島の南イエメンがソ連の支配下に入って、中東の産油諸国を背後から脅かした。
文鮮明先生は世界が日ごとに赤く染められていくのを見て、居ても立ってもいられなかった。
ソ連の世界共産化戦略は、カーター政権の黙認をいいことに、‘翼を広げるように伸張していった。
ソ連はアジア、中東、アフリカ、中南米一帯で日ごとに凱歌をあげた。
ソ連の世界戦略は、中東の石油を統制すれば、ヨーロッパと日本は座ったまま手に入れることができ、中南米をソ連勢力で固めればアメリカを屈服させるのはたやすい、というものである。
「ドミノ理論」が教える通り、ソ連はキューバと中米ニカラグアを”革命の基地”として、ホンジュラス、エルサルバドル、グアテマラを順々に共産化し、最後にメキシコまでも共産化していくことを狙った。
ひとたびメキシコを手に入れれば、アメリカとの二千七百キロメートルに及ぶ陸続きの国境線を通して、ありとあらゆる戦略を行使できる。
アメリカには、これだけの長さの国境線を守る兵力はない。
その場合、アメリカは仕方なくその兵力を韓国や日本、ヨーロッパから引き揚げざるを得ない。
そうなれば、世界をソ連に差し出したも同然である。
そして、もし文鮮明先生が命をかけて韓国からの米軍撤収に反対しなかったら、カーター大統領の選挙公約である在韓米軍撤退は実行に移されていたであろう。
その結果は、米軍駐留なき朝鮮半島に第二の六・二五動乱(第二次朝鮮戦争)が勃発したことは、火を見るよりも明らかである。
続き→ 神が選んだロナルドーレーガン候補
ところが、彼は人権を無慈悲に揉躍する共産主義に対しては寛大な態度をとり、これを等閑視(とうかんし)する一方で、自由主義陣営内の人権問題には熱心だったために、反共を国是とし、共産主義に呑み込まれまいと必死にもがいていた諸国家が、カーターの犠牲となった。その中の一つが韓国であった。
「共産主義の脅威から民主世界を守れる国は、アメリカ以外にない」と固く信じていた文鮮明先生は、カーター大統領の政策に全面的に挑戦した。
カーター大統領が主張する在韓米軍撤退方針に対して、正面から反対に出られた。
その当時、私は日曜日ごとにニューヨークのベルペディア世界宣教本部で文鮮明先生の説教を通訳していた。
その説教の半分以上はカーター大統領の政策に対する痛烈な批判であった。
「ここにアメリカCIA (中央情報局)要員が来ているなら、私の言葉を正確にカーター大統領に報告しなさい。
どうして共産主義の人権弾圧が目に入らないのか。
カーター大統領の人権外交の大義名分の下で大手を振って歩いているのは、ソ連を宗主国とする共産世界ではないか。
もし力―ター大統領の政策をその通り実行して数年が過ぎれば、もはや世界赤化は必至である。
純真なカーターは神様を信じるキリスト教徒でありながら、神様の最大の怨讐になろうとしている。
カーターの下で滅んでいくアメリカを、どうして私か座視できようか」
文鮮明先生のカーター攻撃は辛辣で鋭く、容赦がなかった。
これがカーターの耳に入らないはずがない。
ここから、アメリカのリベラルな政治家と政府による統一教会打倒の攻撃が本格的に始まったのである。
この時既に、カーター政権は文先生をどんな嫌疑でもいいから罠にはめて、刑務所に閉じ込めてしまいたい衝動に駆られていた。
振り返ってみると、1974年7月に
文先生がコネティカット州ダンベリー連邦刑務所に収監される運命は、カーター政権の時から始まっていたことが分かる。
では、どうして文鮮明先生は、この決死的な抗争をカーター政権との間で展開しなければならなかったのか。
そのいくつかの理由を挙げてみよう。
1979年7月、内乱状態にあった中米ニカラグアでついに左翼革命が起こった。
共産主義を信奉するサンディニスタ民族解放戦線(FSLN)が革命政府を樹立し、キューバに続いて2つ目の共産国家が大陸に拠点を確保することに成功した。
サンディニスタ政権はソ連、キューバと手を組んで、近隣のエルサルバドルや中米各国の共産ゲリラに武器援助を与えて、中南米の平和を破壊した。
1979年3月、イランに革命が起こり、親米反共のパーレビ王朝が倒れ、反米的なイスラム根本主義のホメイニ政権が樹立された。
同年十二月には、およそ十万のソ連正規軍が一気にアフガニスタンに侵攻し、ソ連の傀儡であるカルマル政権が樹立された。
この事件は確実にカーター大統領の後頭部を打った。
カーターは、よもやソ連がこれほどあからさまな侵略に出てこようとは夢にも思わなかった。
しかし、気付いたときはもう手遅れであった。
1978年12月から翌年1月にかけては、ソ連の支援を受けたベトナLへ共皇軍が、中共(中国)側に立ったカンボジアに侵攻して親ベトナム政権を樹立した。
アフリカでは、1975年にアンゴラでソ連が支援するアンゴラ解放人民運動(MPLA)が内戦に勝利し、社会主義政権が樹立された。
容共的なカーター政権が発足してからは、時を見定めたように”ソ連の先兵”キューバの活動が活発になった。
キューバはアンゴラ、エチオピア、モザンビーク、コンゴをけじめ十数力国に兵員や部隊を派遣して、”革命の輸出”に狂奔した。
アラビア半島の南イエメンがソ連の支配下に入って、中東の産油諸国を背後から脅かした。
文鮮明先生は世界が日ごとに赤く染められていくのを見て、居ても立ってもいられなかった。
ソ連の世界共産化戦略は、カーター政権の黙認をいいことに、‘翼を広げるように伸張していった。
ソ連はアジア、中東、アフリカ、中南米一帯で日ごとに凱歌をあげた。
ソ連の世界戦略は、中東の石油を統制すれば、ヨーロッパと日本は座ったまま手に入れることができ、中南米をソ連勢力で固めればアメリカを屈服させるのはたやすい、というものである。
「ドミノ理論」が教える通り、ソ連はキューバと中米ニカラグアを”革命の基地”として、ホンジュラス、エルサルバドル、グアテマラを順々に共産化し、最後にメキシコまでも共産化していくことを狙った。
ひとたびメキシコを手に入れれば、アメリカとの二千七百キロメートルに及ぶ陸続きの国境線を通して、ありとあらゆる戦略を行使できる。
アメリカには、これだけの長さの国境線を守る兵力はない。
その場合、アメリカは仕方なくその兵力を韓国や日本、ヨーロッパから引き揚げざるを得ない。
そうなれば、世界をソ連に差し出したも同然である。
そして、もし文鮮明先生が命をかけて韓国からの米軍撤収に反対しなかったら、カーター大統領の選挙公約である在韓米軍撤退は実行に移されていたであろう。
その結果は、米軍駐留なき朝鮮半島に第二の六・二五動乱(第二次朝鮮戦争)が勃発したことは、火を見るよりも明らかである。
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