レーガン政権を強力に支持
「SD-がソ連の軍拡路線を放棄させた」
ソ連はSDIを阻止しようと躍起になった。
一九六〇、七〇年代を通じて一貫して
軍拡に力を注いできたソ連は、既に述べたように、アメリカに対して核戦力で圧倒的な優位に立った。
しかし一九八〇年代に入ってからは、ソ連経済に疲弊が目立ち始め、これ以上の過大な軍事支出には耐えられなくなっていた。
一般の産業では労働生産性が低下し、技術革新の遅れも顕著になった。
粗悪品が出回る一方、必要な物は手に入らず、食糧事情は悪化した。非効率で硬直的な計画経済の矛盾が噴き出して、国民の生活水準は悪化を辿ったのである。
それに加えて、アフガニスタンでは反政府ゲリラの抵抗で膨大な出血を強いられ、共産圏諸国への援助も
重い負担となってソ連経済を直撃した。
もはやソ連には、アメリカのSDIに対抗して宇宙兵器の開発競争に乗り出す余裕はなく、技術的にも行き詰まりを見せていた。
事実、ソ連滅亡の運命はこの日、つまりレーガンのSDI演説の日から始まったと言っても過言ではない。
ソ連はSDIの妨害工作に狂奔するばかりで、これに対抗する根本的な政策を何一つ準備できなかった。
ソ連がゴルバチョフ共産党書記長(一九三一~ 在職一九八五~九一)の新体制に入ったのは一九八五年三月である。
ゴルバチョフ書記長はSDIに対抗する戦略が実行可能かどうかで熟慮を重ねた。
ソ連がSDIと張り合って軍拡競争に突き進むなら、ただでさえ疲弊している国民経済が完全に崩壊してしまうことは間違いなかった。
ゴルバチョフは「世界共産化戦略」から「米ソ共存戦略」に転換せざるを得なかった。
結局、SDIがソ連に白旗を揚げさせたのである。
ソ連は屈服したくて屈服したのではない。
もはやどうしようもなくなって、自ら膝を屈するよりほかなかったのである。
追い詰められたソ連が起死回生策として打ち出しだのが、「グラスノスチ(Glasnost情報公開、開放)」と「ペレストロイカOPerestroika改革、立て直し」」、そして軍縮政
策であった。
この時から、ソ連崩壊のカウントダウンが始まった。
これはソ連帝国が終焉してからの話である。
一九九三年二月、ゴルバチョフ政権で外相を務めたアレクサンドルーベススメルトヌイフ氏は、アメリカのプリンストン大学に招請され、「冷戦の終わり」をテーマとする国際会議で重要な発言をした
ゴルバチョフ政権の中枢にいた人物が、「SDIがソ連の軍拡路線を放棄させた」と初めて明確に薗言したのである。
「米国と旧ソ連両国政府の八〇年代の外交、防衛関連首脳が参加したこの会議では、ソ連に従来の米国との軍事対決の政策を変えさせ、冷戦の終結を実現させたのは何か、という疑問が中心課題となった。
会議の中でベススメルトヌイフ氏は『レーガン大統領加八三年三月に発表したミサイル防衛構想のSDIはソ巡錫に大きな衝撃を与え、ゴルバチョフ共産党書記長(当時)は、「もしソ巡錫もSDIに対抗して
同種のミサイル防衛網を開発しようとすれば、ソ連の経済に修復不可能な損害を与える」という判断を固め、軍事対決路線から後退する決意を下すに至った。」
と述べ、SDIこそがソ連側との全面核戦争覚悟の軍拡政策を放棄させる決定的な要因になったという歴史的な事実を明らかにした。」
(産経新聞1993年3月1日付)
またソ連KGB(国家保安委員会)幹部であったオレグ・D・カルーギン元少将も、一九九四年十月六日付産経新聞のインタビューで、SDIに関して次のように発言した。
「アンドロポフ元ソ連共産党書記長(八二年十一月~八四年二月)がKGB議長だった末期の八〇年代初め、KGBはSDI構想の存在を察知し、同議長はソ連国内と海外のすべての拠点にパニックに満ちた至急電報をひそかに送った」
(電報は「米国が導入しようとしている新兵器で、世界は核戦争の瀬戸際に追いやられよう。〔米ソ間の〕状況は一九二〇年代半ば以降で最悪」との内容であったという)
SDI政策はソ連KGBを恐怖に追い込んだ。
それが何を意味するのかを彼らはあまりにもよく知っていたからでである。
SDI政策が採択啓れると、天はソ連にたった一つだけ生存の道を残された。
それが米ソ和解とソ連自由化の道であり、東欧圏自由化の道であった。
そして、ゴルバチフ書記長はその道を選択した。
これらの事情に思いを致すとき、われわれは神の奥妙なる摂理に粛然として頭を下げざるをえない。
天はまず文鮮明先生をして「レーガン大統領を当選「せしめ、続けてすぐにワシントンタイムズをそうせつさせるようにさせ、この2つの摂理を合同してSDI政策を歴史の表舞台に登場させ、究極的には共産主義の終焉へと導かれたのである。