金仁珠女史 文鮮明師に対する証言

文鮮明師に対する証言

金仁珠(1946年平壌で伝道された女性)の証言

1940年代のピョンヤン
1946年6月、
「神霊なる方がソウルに来られて、集会をするので一緒に行ってみないか」と、家に訪ねて来たいとこに誘われました。
集会場所は、京昌里の小さな部屋でした。
その時、初めて先生にお目にかかりました。
私の年は三十歳で、先生は二十七歳でした。

その集会で先生は讃美歌を何度もうたわれました。
そして説教をされましたが、汗と涙が入り混ざっていました。
説教の内容も、私が今まで聞いてきた説教とは全く異なったものでした。
それは部屋中に熱気がこもるほど深刻な内容でした。

その時のみ言の中で特に忘れることができないのは、イエス様の十字架路程が既成事実でないということでした。
『イエス様は生きてみ旨を成就しなければならなかったのに、ユダヤ人の不信仰により、み旨を成すことができなかった』という所で、私はのどか詰まってしまいました。

その後、最初の講義を聞いた日、神は私に啓示を見せてくださいました。
それは次のような内容です。

 私は大きな洞窟を通らなければなりませんでした。
 その時「この洞窟は少し入れば、暗くて方向がわからなくなってしまい、その道は極めて険しい。しかし後退せずに前進せよ」というみ言を聞き私は前進しました。
 そうして半分ほど行った所で暗くなり始めました。
 それはとても険しい道で、口では表現できないほどでした。
 私は傷口から流れる血を拭いながら泣き、両目をしっかり明けて父(神)を呼びました。
 途中で何度戻ろうと思ったか知れません。
 しかし、神から「それでも前進せよ!」というみ声があり、私は激励されて歩み続けました。
 でもこれから先に、どれぐらいこの暗闇が続くのかと思うたびに、私は絶望感が先立ったりするのでした。

 とうとう疲れて倒れそうになった時、暗い洞窟の前方から明るい光が見えてきました。
 歓声を上げながら洞窟を出ると、美しい花園が広がっていて、数多くの人たちが自由と平和を満喫しながら生きていました。
 そこに先生もおられて、私を迎えてくださいました。

この啓示は、私がいかなる苦痛に立たされても、そのたびごとに力を与えてくれました。
先生のみ言を聞いたその日から、私は父の教会には行かなくなりました。
そして、私は毎日み言が聞きたくて集会所へ訪ねて行きました。
そこで先生の説教を聞くたび、私は心霊の目が開き神の声を聞くことができ、その一日がどのようになるかを予言できるようになりました。

そうなると、家からの迫害が始まり、
「なぜ父の教会に行かないで、教会の看板もなく牧師でもない人が率いている部屋の教会に行くのか」と、厳しく詰問されました。
しかし、私はそのような言葉にびくともしないで、集会所に通い続けました。

私が父の言うことを聞かないので、父は私を殴って教会に行くことを止めさせようとしました。
父の挙が私の体にあたるたびごとに、私は痛さのあまり声を出して泣きながら叫びました。
「神の真なる目的を知って、その教会に行くことがなぜいけないのでしょうか」と。
 
私の体には幾つもの青いあざができ、髪は引っぱられて多数の毛が抜けてしまいました。
私は結婚をしていても親元で暮らしていましたが、いつも殴られながらも統一教会の集会所には通い続けました。

家には大きな門が二つありました。
ある日、私がその門を出ようとすると、
突然二匹のシェパードが飛んで来て激しく吠えまくって、私が教会に行こうとしていることが父母に知れてしまいました。
そこでまた、私はさんざん悪口を言われ、鞭で打たれなければなりませんでした。

また、ある時は教会に行きたくなると、
私はお姉さんの所に行くと言って家を出ました。
お姉さんの所では、兄弟のお嫁さんが私の味方になってくれました。
裏の垣根の下にリンゴ箱をおいて、お嫁さんが私の足元を支えてくれたので無事に垣根を越えたこともありました。
人の背たけの二倍もある垣根を飛び降りる時には、目まいがするほどでした。
しかしそのようにして路地を抜け出しても、家が二階建てのため路地が見おろせるようになっているので、見つかってしまい、また殴られて、血のあとが体中についてしまうこともありました。

父母に殴られる時、私はステパノが石で打たれて死にながらもイエス様を証ししたことを思いながら、父母が、まさか私を殺しはしないだろうという気持ちで耐えていました。
そして私は熱心に集会所に通うのでした。

私が熱心になればなるほど、父母はさらに反対しました。
とうとう私の部屋の戸をすべて閉じてしまったので、私は家の中で監獄生活をするようになったのです。
しかしそれでも、私は家を抜け出して教会に行きました。
すると、父は最後の手段をとり、親指ほどの太いロープで私の足を縛って、部屋に閉じ込めたのです。

私は泣きながら訴えました。
「お父さん! 神様は消えそうな灯も消さないほどの愛を持ちなさいと言われたのに、どうして私が通っている教会をよく調べもしないで、
私を動物のようにロープで縛っておくのですか。
私は動物ではありません。
同じ人間であり、お父さんの娘なのです」。
すると父は、「娘ならば、父母の言うことを聞きなさい」と言うばかりでした。
私は決意して、つめで堅いロープを切ることにしました。
二時間ほど必死にやるとロープは切れました。
ロープが切れると、私は教会に行って泣きながら祈りました。

それでも教会に通う私に、父は鉄の鎖を右足にはめてしまったのです。
もう私の手では鎖は切れません。
父は部屋に便器まで用意して、食事を運んでくれました。
しかし私は食事をする気にはなれず、全々口をつけませんでした。
十日もたつと私の体はやせ細ってしまいました。
私の生みの親であっても、娘が違う信仰の道を行くからといって、なぜこれほどまでに反対するのかと悲しく思うばかりでした。
しかし父はとうとう見かねて、私の鉄の鎖を外してくれました。
「あなたを迫害する者は安全ではないだろう」という啓示を受けて、暫くたった後のことです。
不思議なことが起こりました。
父と親しい長老がしばしば家に訪ねて来て、よく私のことを話していたのですが、その長老が半身不随になったのです。
また、ある母の友人が、私のことで母を苦しませていたのですが、その人も盲になってしまったのです。

その他にも色々な事件が起こりました。
その時、神様が直接役事なされるということを実感させられました。

また、私に、霊的試練が起こりました。
ある日、サタンが私を(夢で)試みに来たのです。
そして「私が多くの財物を上げるから、統一教会に行くことを止めなさい」と言うのです。
私は「絶対にそんなことはできません! 
韓国の国土ほどのダイヤモンドをくれたとしても、この信仰の道を捨てることはできません」と言って拒否すると、サタンは銃と剣で私を突き倒しました。
殺されながらも私は「神様、どうか私の魂を受けてください」と祈りました。
目ざめてみると、全身が汗でびっしょり濡れていました。




また、夫の迫害も激しく、夜遅く帰ってくる夫は、私に一日中の行動を話すようにと言うのでした。
私が今日は教会に行ってきたと話すと、立ち所に腹をたてて、私を拳で殴るのでした。
堅い拳で殴られるたびに目から火花が散るようでした。
私はそのたびに『彼は、何も知らずにやっているのですから、いつかはみ言を知ることができるようにしてください』と必死に祈っていました。

ある時は、お膳を三回も用意したことがありました。
夫は私と話をしていて、何度も「食事が冷めたから、もう一度温め直してきなさい」と言うのです。
そして、必ず「もう教会に行くな!」と言うのでした。
私はご飯を温めようとお膳を持って台所に行きましたが、ご飯の入った食器が見つからないので、夫の部屋をのぞいた時です。
突然、障子戸越しに食器が飛んできました。
以前バスケットの選手だった夫は、その食器を正確に私の顔に目がけて投げたのでした。
私はすぐに身を伏せましたので、食器は台所に投げ出され粉々になりました。
もし、真直に私の顔に当たったらどうなっていたかと思うと、目まいがする思いでした。

その内に私はとうとう心臓病にかかってしまいました。
全身が腫れて、生きていくのが恐ろしくなるくらいでした。
幸いに姉が漢方の薬を使って看病してくれたので、病気もようやく治りました。

その当時は、統一教会という看板もなく、原理も体系化されていませんでした。
しかし私は、このみ言がこれからの時代の新しいみ言であると確信したので、そのみ言をどんなことがあっても捨てることができませんでした。
そのため、迫害も多く受けましたが、私は堂々と越えたのです。
私は迫害を受けながらも、胸の中には一つの確信がありました。

そのうちに私の夫(1978当時、慶煕大学体育学部長)は、
教授アカデミー(1973年創設)で主催した
第一回原理公聴会に参席して帰って来ました。

そして、「統一教会は異端ではなかった。
それがハッキリ判明された。
今まで私があなたを憎んだり、
叱ったりしたのは何も知らなかったからで、本当に申し訳なかった。
私も教会に出ることにする。
だから、私たちの子供たちも全部教会に出るようにしてください」
と言ったのです。

この夫の一言を聞き、私は感謝の涙がどっと溢れ出てきました。
そして、言葉ではとても表現できない喜びが私の胸を詰まらせました。
このことをどれほど願っていたことでしょうか。
神は彼に、神の事情を知るようにしてくださったのです。
私は今までのことを考えると、以前に啓示で見た時のように長い長い洞窟の中から、
光り輝く外の世界にやっと出て来たという実感でした。



私は金元弼氏を伝道しました。(1946.7)
彼は私のいとこです。
彼は師範大学を卒業した後、教師をしていましたがみ言を聞いて入教し、やはり多くの受難の道を歩みました。
初創期の時に教会に来た人は、誰もがこのような受難の道を歩んだのです。
その時、数多くの人々が教会に来ていたのですが、周囲の迫害に勝つことができずに、皆倒れてしまいました。

北韓で因縁を結んでいた車相淳牧師、池承道おばあさん、
金元弼氏、鄭達玉氏等は私たちの信仰の根ということができます。
この方々が信仰を守って来た道と、私が歩んで来た道を振り返ってみる時、現代の皆さんがこの道を信じて歩んで行くことは、容易いことだと思います。
今は一生懸命にみ旨を成そうと思えば、いくらでも大きなことができる土台があるのです。

私は昨年が還暦でした。(1978年当時)
今はもう、どんなにすばらしい働きをしたくとも体がいうことを聞いてくれません。
人間にはやはり、限界があるようです。ですから、若い時に働かなければ後悔するような気がします。
「生命がなくなるまではこの道を行こう」という、一つの目的を明確に定めてからは、どのような迫害も嘲笑も私にとっては問題ではありませんでした.

かえって、それは怠ける私の信仰を呼び覚ましてくれるものでした。

しかし、それらの迫害よりも耐えがたいことは、それは時に自分の信仰が揺らぐことです。
このようなことは信仰をする人であれば誰もが体験することだと思います。
自分の信仰が確固たるものであれば、何ものもそれを崩すことはできないでしょう。
信仰するということは、一時的な平安を得るためではなく、他人の機嫌を伺いながら行く道でもありません。
永遠なる神の愛に向かって行く道なのです。
ですから、七面鳥のように常に変わるような信仰を持ってはならないのです。
神は多くの迫害の中でも、常に私たちを守ってくださり、導いてくださっているからです。



1978年に話された証しより

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