ピョンヤンでの裁判 文鮮明師に対する証言

文鮮明師に対する証言

ピョンヤンでの逮捕から 興南強制収容所での証言
① 1948年 ピョンヤンでの裁判


1948年当時、北朝鮮において キリスト教会が運営する企業がすべて没収され、食糧配給制により教会の基盤が弱体化していった。
経済的に厳しい状況の中で、教会を維持していくことは容易ではない。
文鮮明師は、このような状況の 平壌で伝道をはじめ、多くの人々が、文青年の下へ集うようになっていた。
いくつかのキリスト教会の中には、その人たちの献金で支えられていた教会もあった。

そのため、今まで通っていた一般キリスト教会を去り、文青年の教会へ行った信徒が増えることにより
破綻してしまう教会もある。
そのような教会の牧師は、文青年に対して警戒した。
それだけではない。
牧師たちは社会的に影響力をもっていたので、そのことを利用して文青年を共産党当局に訴えたのである。
その訴えの数は八三通にも及んだ。
既成教会のねたみと共産党の宗教抹殺政策などによって文青年は一九四八年二月二二日再逮捕され、平壌内務署に勾留された。
 文師によれば逮捕された三目後の二月二五日に髪を剃られ、平壌刑務所に収監されるまで多くの拷問を受けた。
文青年は血を吐く拷問の場で何度も倒れ、意識をすべて失ってしまう場でも、「私を救ってください」とは祈らなかった。
むしろ「心配しないでください」と祈った。
それは神ご自身のほうが、より苦しい立場にいらっしやることを実感していたからである。
 平壌の冬は寒い。一月が最も寒いが、二月の平均気温でもマイナス五度、最低平均気温はマ
イナスー○度である「一九〇七」二四の平均)。寒いときはマイナスニ○度を越す。
平壌内務署に勾留された人の中には、眠っているうちに死んでしまうのではないかと思った人もいる。
夜が明けて起きて見ると布団は凍って固い板のようになっており、真っ白な霜が覆うこともある。
そこに半分凍り付いた豆粕ご飯が運ばれてくる。
それを食べれば体の芯が冷え、体が震えあがった。
 一九四八年四月七日に文青年の公判が行われた。
以下はその場を目撃していた金元弼氏の証言をもとに再現してみた。



 神を信じることは、ばかげたことであることを人々に示そうとする共産主義者たちの意図があった。
そのため当日は共産当局の高官が多数参席しただけでなく、若い共産主義者も全員傍聴させていた。
彼らを訓練する教育の場にしようと考えたからだ。
文青年は議論の的になっていたため、裁判を見ようとする人々で法廷がいっぱいになった。
そこに髪を刈られた文青年が手錠をかけられて現れ、裁判が始まった。
 文青年に最初に質問したのは、「何を専攻したか」であった。
「電気工学を専攻した」
「電気はどのようにしてつくられるのか」
 このように尋ねるのは、人間が目に見えない電気を起こすことができるように、共産主義者は見えない神も人間がつくったものであると考えていたからである。
 電気の質問を通して、宗教批判にもっていこうとする裁判官の意図を知っていた文青年は、電気の原理を詳しく説明した。
文青年はソウルと日本で電気を専門的に学んだ。

文青年の答弁に裁判官は困惑し、話を途中で止めさせた。
それは裁判官の意図とは異なり、文青年の話に説得力があったからである。
 文青年に対する判決文には、無知な人たちを甘い言葉で誘惑して虚偽を提造し、多くの金品を搾取し、キリスト教徒の家庭や社会を破綻させたことが記されていた。
判決文を読み終えると、裁判官は文青年に尋ねた。
 「この判決文に関して改める言葉はないか」
 このようなときは異議を唱える者はいない。
それが最良の方法であることは誰でも知っていたからである。
だが文青年は堂々と抗議した。
 「『虚偽』という言葉を除くように」
 文青年の抗議は認められず、「社会秩序章乱罪」で五年間の強制労働の判決が下された。
当時のソ連の裁判手続きにならった一方的な宣言であった。
 不利な状況下にあっても反対意見を述べる文青年の威厳ある姿に、裁判の成り行きを見ていた共産仁義者たちはショックを受けた。
彼らのねらいは人々に、「神の人(文青年)の無力さ」を見せつけることにあったからだ。
高官たちは若い共産主義者を教育のために、ここに連れて来たことを後悔した。
 裁判を見守っていた金元弼氏(当時一九歳)は、文青年の法廷での振るまいに圧倒された。
文青年はいつもと変わらない姿であるとともに、どんな人でも落胆するような状況下にあっても毅然としていたからである。
 金氏には文青年は、優しく温かい愛のある子供を抱いた父親のイメージがあった。
ところが金氏はこの法廷における文青年の言動を通して、度胸があり決然としていて大胆で、何ものも恐れない威厳をもった文青年の一面を見たのである。
判決が下されるそのときでさえ、文青年は惨めさも悲壮感もなかった。
むしろ顔は希望に輝いているように金氏には見えた。
実際文青年は、神が準備した人に出会えるという希望をもって平壌刑務所に向かった。
 金仁珠さんもこの裁判の場に顔を出した。
文青年は産後間もない金仁珠さんを気遣い、家に帰るように合図を送った。
そのため金さんは、この裁判は最後まで傍聴しなかった。
文青年はこのように追い込まれた状況の中にあっても、人の気持ちや現在のその人の立場をすぐに理解し、指示する余裕をもっていた。
 玉世賢さんもこの場に来ていた。
彼女によれば文青年の裁判のことが新聞に掲核されたため、多くの既成教会の人々で裁判所の傍聴席はいっぱいになったという。
彼らは文に同年に対し、あらゆる悪口、中傷、批難の言葉を浴びせた。
「イエスは頭に何をかぶっていたか」「打ち殺せ」と叫ぶ民衆の姿は、二〇〇〇年前のイエス様の苦難を彷彿させる情景であったと玉さんは振り返る。
 文青年の片于には手錠がかけられ、もう一方の手には玉さんが差し入れた弁当を持っていた。
いよいよそこに集った弟子たちと別れるとき、文青年は弁当を持った手を高く挙げて、「再び戻ってくるときまで元気で頑張っていなさい」と暗示するように、笑顔で弟子だちと別れた。
続き→ 2、平壌刑務所に収監

ピョンヤンでの逮捕から 興南強制収容所での証言

1、平壌での裁判
2、平壌刑務所に収監
3、興南での強制労働 1948年~
4、金仁鎬氏の証言 「監獄内の聖者 文鮮明氏」






この内容は武田吉郎著 「再臨主の証明」より抜粋した内容です。
詳しくは「再臨主の証明」をお読みください。

↑ PAGE TOP