興南での強制労働 1948年 文鮮明師に対する証言

文鮮明師に対する証言

ピョンヤンでの逮捕から 興南強制収容所での証言
③ 興南での強制労働 1948年

興南収容所
文青年は一九四八年五月二〇日、平壌刑務所から東海岸に面した典南(咸鏡南道)の本宮特別労務者収容所に移送された。
本宮という名称は、李朝の始祖、李成桂の生家があり、その陵があることに由来する。
 この本宮特別労務者収容所で犯罪の性質、刑量などによって、どこに送るかが検討される。
文青年はここから1ヵ月後の六月二一日、興南徳里特別労務者収容所(興南収容所)に移送された。
そこで朝鮮窒素肥料興南工場(当時、興南地区人民工場)で強制労働に服すこととなった。
 ところで朝鮮窒素肥料典南工場が完成したのは、一九二九年のことである。朝鮮の軍需産業は労働者を必要としたため、戦前、興南工場には多くの学徒、囚人(受刑者)をも動員した。
 「彼らの宿舎は朝鮮人従業員用に建てられていた独身川合宿や社宅を改造し、高い塀で囲んだ収容所となっていた。
彼らはそこから綱で幾人かがIしよにつながれ、鞭をもった看守が前後を監視しながら、工場の作業場に歩いて行った。
彼らの足は肉がなく細くて棒のようだった」『北鮮の日本人苦難記』(時事通信社)
戦前の興南工場ではコー時間から一六時間労働で、有毒ガスが常時発生し、労働者の80パーセントが結核などの呼吸器の病気にかかり死者も出た。
終戦時に興南地区の日本窒素の関連会社で働いていた数は四万五〇〇〇人に達していた。
戦後、正式引き揚げの発表があったのは一九四六年一一月二目。
興南工場に勤めていた日本窒素の従業員全員の引き揚げが完了したのは、一九四八年七月四目である。
ということは文青年が興南に入ったときは、まだ日本人従業員がいたことになる。
 朝鮮戦争(一九五〇~五三)が勃発し、一九五〇年一〇月、国連軍が興南を空爆して解放されるまでの二年五ヵ月間(再逮捕から数えると二年八ヵ月間)、文青年はこの興南で強制労働に服した。
この二年八ヵ月間は、イエスが公生涯を過ごされた期間であったと文師はいう。
イエスはこの間コー弟子を立てたが、十字架に掛かるときその基台が崩れ去った。
文青年はその失敗を取り戻すため、ここで強制労働に服しながら二一弟子を立てなければならなかった。
もちろんここでは自由に話ができるような環境ではない。
 文青年に与えられた労働は、一〇人一組で硫安を吹に詰める作業である。
文青年らの囚人たちのノルマは、1300叺であった。従業員が1300叺を全うすることが簡単ではなかったことを考えれば、栄養失調の囚人が1300叺のノルマを果たさなければならないことの難しさは容易に推察できよう。
 文師は共産主義の本質をここで体験することとなった。
このような強制労働はロシア革命が起きた直後から旧ソ連で始まった。
旧ソ連の強制労働で組み込まれていたシステムは、差別食運用制度と作業班制度である。
これらの制度がこの興南での強制労働においても、しっかりと踏襲されている。
 「働かざる者食うべからず」の共産主義の命題に従い、ノルマを達成しなければ食事は半分に減らされた。
ちなみに「ノルマ」という言葉は、ロシア語に由来している。
昼食は作業場に行かなければ与えられない。
そのため囚人たちはどんなに苦しくても這ってでも収容所を出て、四キロほど先にある肥料工場に向かった。
これが差別食運用制度である。
 作業班制度とは、一〇人一組による連帯制のことである。
ノルマ達成のため}人が于を抜けば、全体にすぐに直結する。だから仲間が看守よりも確実に監視することになった。
興南工場硫安倉庫の一部(朝鮮窒素肥料)
「日本窒素肥料事業大観」より



続き→  4、金仁鎬氏の証言 「監獄内の聖者 文鮮明氏」

ピョンヤンでの逮捕から 興南強制収容所での証言

1、平壌での裁判
2、平壌刑務所に収監
3、興南での強制労働 1948年~
4、金仁鎬氏の証言 「監獄内の聖者 文鮮明氏」




この内容は武田吉郎著 「再臨主の証明」より抜粋した内容です。
詳しくは「再臨主の証明」をお読みください。



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