金仁鎬氏の証言 「監獄内の聖者 文鮮明氏」

文鮮明師に対する証言

ピョンヤンでの逮捕から 興南強制収容所での証言
④ 金仁鎬氏の証言 「監獄内の聖者 文鮮明氏」

興南工場
「監獄内の聖者 文鮮明氏」
 文青年と同じ興南収容所の監房にいたことのある金仁鎬氏にインタビュー
(一九九四年一一月一六日にソウル)
当時六八歳
金氏は自分の半生をつづった本
(『ソウルヘ来る道』図書出版民衆、一九八五年)を出版し、そこに興南収容所での強制労働に服した体験などが詳しく記されている。
 その書籍の第一章の中に「監獄内の聖者 文鮮明氏」という項目がある。
そこに文青年について金氏が獄中で見たことが書かれている。
金氏はキリスト教信徒でもなければ統一教会の信徒でもない。
筆者がインタビューした内容を紹介する前に、金氏が述べている収容所(監獄)内の文師について、まずこの本から抜粋したい。
「彼(文青年)は共産党員の看守たちも認める模範囚だった。
その理由は少しの反則も犯さなかったし、体格は壮健で少しも休まず熱心に作業をしていたからである。
『私か少しでも熱心に作業をすれば、同僚のみんながそれだけ苦労しなくてすむだろう』
周囲から体を少しいたわったらどうかと言われれば、文氏はいつもこのように答えながら働く手を止めようとしなかった。

ソウルヘ来る道 金仁鎬著


 文氏は言葉が少なかったが、いつも穏やかな顔で一貫しており、仕事の面では誰も彼の力と熱心さに及ばなかった。
一つだけ気になることがあった。
文氏は一度も風呂に入らないのだった。
一日中忙しく仕事をすると、目や鼻にまで肥料の粉が付き、それに汗とはこりが混ざってべとつき、風呂に入らなければ耐えられなくなる。
そのためたとえきれいではない廃水のような工場用水を使ってでも沫浴するのである。
後目この文鮮明氏の気になる謎が解けた。
 ある目私は用便をしたいと思って、いつもより二時間ほど早く起きた。
まだ夜が明けていない監獄
の中は暗かった。暗闇に目を慣らそうとして静かに座っていると、部屋の片隅で暗闇の中に座っている文鮮明氏の姿が見えた。
 『金君かい? 早く起きたね』
 祈祷でもしていたのだろうか、文氏は閉じていた目を開けて言葉をかけてきた。
 『毎日このように夜明け前に起きておられるのですか? 疲れないのですか?』
 『大丈夫だよ。早く起きるのに体が慣れて、もっと休もうとすると体がむずむずするんですよ』
 用便を終えて帰って来ると、文鮮明氏は上着を脱いでタオルに水を付けて冷水浴をしていた。
 『文さん、寒くありませんか。風邪でも……』
 『工場で体を洗わないから、こうでもして体を拭かなければ耐えられないんですよ』
 つまり彼は工場廃水のような水では決して体を洗わず、飲む水を大切にタオルに浸しておき、毎日明け方に全身をふき清めていたのだった。
起きて祈りを終えたあと冷水浴をして、もう1度祈ったあと食事をして作業に出掛けるのであるから、彼の強靭な体力と精神力は大変なものだった。
 死と隣り合わせの環境で、自分の体力を管理することだけでも並たいていのことではない。
それなのに自分の宗教儀式を守っていくために、黄金にも値する大切な睡眠時間を毎日二時間ずつ削るということが不思議でさえあった。
 もう一つ不思議なことがあっだ。
このうわさは収容所内に広く行き渡って知らない人はいなかった。
うわさによると文鮮明氏が神通力をもっているというのだった。
ある看守が理由なく文鮮明氏を虐待すると、その夜、山の神のような老人が現れて看守に言い聞かせたという。
さらに不思議なことは、こうした事実を文鮮明氏自身が前もって知っていで、前日自分を苦しめた看守に、前夜見た夢の話をあたかも自分が見たかのように詳細に話して確かめるということだった。
 私は昔も今もキリスト教徒でもなければ統一教会の信徒でもないので、気兼ねなく話をすることができる。
文氏が興南監獄で見せた変わらない言行と人格は、長く忘れることができなかった。
 さらに文氏との面白い思い出かおる。
当時の収容所では、食べる物がほんとうに不足していて、差し入れた食べ物を隣の同僚に分けてやることはとても難しい状況だった。
しかし文氏は自分が食べるべき食事を、ひもじくて我慢できない隣の同僚たちに分けてやっていたのだった
 当時、収容所では食べ物に飢え、重労働に苦しめられていた囚人たちの間に流行していた話があった。
監獄の中でもらって食べた豆一つは、一般世間での豚一匹に匹敵するというのである。
これが収容所の実情を物語っている」
金仁鎬氏の証言
 金仁鎬氏が平壌刑務所から興南収容所に来だのは、一九四八年一一月であった。
文青年が興南に来た後のことである。
金氏が収容所から解放されたのは、文責年と同じ一九五〇年一〇月一四日である。
彼は監房内の移動があっても不思議に思うほど、文青年と同じところに移った。
文青年と同じ監房で一年ほど彼は寝起きをともにした。
筆者はまず収容所内における文青年について金氏に尋ねた。
 「私(金仁鎬)は興南収容所にいたころ22、3歳でした。
文先生は私より年上で高貴な方でした。
人生の問題についても相談することができ心から尊敬できました。
それに文先生は本当に寝る時間の少ない方でした。
一日の睡眠時間は三時間くらいではなかったでしょうか。
不言実行であまり語ることはありませんでしたが、行動で私たちに見本を示してくれたのです」
 金氏によれば、興南収容所の監房は狭かった。
一部屋に約二五人(ときには三〇~四〇人)が詰め込まれていた。
あまりにも狭いため体を斜めにしなければ休むことはできない。
夜中にトイレにでも行けば、再び自分の寝る場所を確保することも容易なことではなかった。
監房内でどのように寝ていたか、金氏は筆者のために描いてくれた。
金氏による一目のスケジュールは次のとおりである
(同じ収容所にい九人によっても時間などは異なっている。

 1日のスケジュール」
 ・早朝四時半ごろにサイレンが鳴り、看守たちが「起床!」と叫んで回る。
 ・朝食時間は三〇分あったが、二、三分で終わる分量であった。
 ・午前五時ごろ、運動場に集合して点呼を取る。
 ・午前六時ごろ、収容所から六キロ離れた興南肥料工場に出発する。
         脱走を防ぐため手をつないで下を向いて四列になって歩く。
         日曜日を除けば、どんなに激しく雨が降ろうが雪が積もろうが、収容所と工場まで往復する。
 ・午前七時半ごろ工場に到着。その日の仕事の配置が決定する。
 ・午前八時ごろから什肘を開始。
 ・正午から川食。朝食㈲様にIごI.分もあれば食べ終わる分冊だ。川食時間の残りは娯
楽会が開かれる。
これは囚人たちが楽しむのではなく、看守たちが楽しむために囚人たちに流行歌などを歌わせる。
歌う人は毎日ほとんど決まっていた。
娯楽会のとき居眠りでもしようものなら後ろから殴られる。
囚人同士で雑談することもできない。
 ・午後一時ごろから六時まで仕事(休憩時間あり)。その後再び収容所に向かう。
そこに戻れば看守たちのチェックを受ける。
作業場からガラスのかけら、タバコの吸い殻、ひも、マッチなどを隠し持ってこなかったかを調べられる。
 ・午後八時ごろから夕食。
 ・午後九時ごろから「読報会」が約三〇分。朝鮮労働党の機関紙である『労働新聞』の社説を読んで討論する。
またその日の作業についての自己批判など。感想文はマークされた人間が、一週間かI〇日間に一度書く。
 ・午後一〇時ごろ就寝。
 水は一日、朝と夕方の二回もらえる。昼は個人ではもらうことはできないが、水が溜めてあ
るところから一杯だけもらえる。
 「収容所での生活」
 日曜日は作業がないため「読報会」は長く約二時間。
一時間は日光浴。洗濯などをする。
体浴は一週間に一一回ほどあった。
手紙はI、一‘力月に一度書くことができた。
 川会は基本的に。
力月に一回であったが、そうできないときもあった。
面会時間は約三〇分。朝鮮戦争が始まる前は、面会場所も決まっておらず比較的自由に面会することができた。
戦争が始まってからは、面会のための特別な場所が設けられ、面会のときは看守が必ず立ち会った。
面会は指示通りにしないと、その後面会することができなくなる。
面会のとき持ってくるもので多かったのが、ミスカル(米・麦を炒ってからひいた粉)、服や下着である。
 囚人服は最初に支給されたものを季節にかかわらず、着続けなければならない。
下着などの支給もない。
服が破れれば自分で繕う。
栄養失調になると二ヵ月くらいで死んでいった。
皮膚を押しても戻らなくなったら、死ぬのは時間の問題である。
ご飯や汁(スープ)は人間が口にするようなものではなかった。
スープは海水を煮たためか苦く、食器の底に何かあると思ってじっと見ると、小石が沈んでいたりする。
 一九四八年九月九日に朝鮮民主主義人民共和国が建国された。
この九月九日は金日成主席の配慮で収容所に牛一頭をプレゼントしてくれたという。
その日所長の長い金日成賛美の演説が終わり、待ちに待った食事になった。
ところが牛肉のスープだというのに、牛の脂は一滴も浮いていなかった。
 このような生活が続くと、囚人たちの間には殺伐とした雰囲気が生まれる。
また監房の中には看守に情報を提供するスパイがいた。
だから誰も話をしなくなる。
スパイは情報を少し提供することでご飯が少し余計にもらえるため、囚人は容易にスパイの役を引き受けてしまう。

 興南肥料工場で働いているのは、囚人以外にも一般の労働者もいた。
彼らは八時に出勤して午後六時になれば仕事を終える。
ノルマなど特になかったようで、作業の合間にタバコを吸ったり雑談も自由にしていた。
昼食時間になって彼らが家から持ってきた弁当を食べる姿を見ると、自然に口からよだれが流れた。
 冬にIメートルくらい、雪が積もったことが二度ほどあった。
雪が積もろうが雨が降ろうが日曜日以外は毎日往復した。
一〇人一組の作業内容は、先に紹介した鬼塚氏の証言とは少し異なる。
肥料を吹に入れるのが二人。
重さを計るのが一人。
吹を運ぶのが二人。叺の口を縛るのが二人。
その吹を貨車に上げるのが二人。
貨車の上にいて吹を受け取るのが一人、合計一〇人である。
 金仁鎬氏の書籍には、監獄内でのある牧師のことが記されている。
金氏によればその牧師の娘婿が監房でマラリアにかかった。
マラリアに利く薬をその牧師は持っていた。ところがその娘婿は、その薬を牧師に哀願してももらえなかった。
その牧師は有名な牧師で、出獄後も多くの信徒たちから尊敬と名声を博していた。
金仁鎬氏はこの牧師の収容所での出来事を知っているので、その牧師については複雑な思いになるという。
 インタビューのため回していたカセットテープを止め、最後に金氏との雑談になった。
そのとき筆者は「最後に文鮮明師はどのような人ですか?」と尋ねた。
そのとき金氏は即座に「生きた神様である」と語った。
一瞬言っていることが即座に飲み込めなかった。
彼の話は続いた。
 「イエス・キリスト、孔子、釈迦、ムハンマドなどの聖人は死んで、今は地上にいない。
今この世にいる聖人は文師である」
 これはテープに入っていないため、正確には確認が取れない。
だがこのようなことを証言したのである。
これが地獄の中の地獄ともいえる過酷な収容所で約一年間、文師の行動を二四時間、見てきた人物の言葉である。
多くの人から尊敬と名声を博すことも容易なことではない。
だがそれよりも難しいのは、最も身近にいる人から尊敬されることだ。
さらに地獄のような環境の中にあって、共に生活をしている人から尊敬されることはもっと難しい。
 
「監獄へ入ったときこそ、人間の真実の心を知る最上の機会である」
「監獄は人間社会の縮図
であり、人間の本質が露骨に表われる」という言葉がある。
この言葉に従えば、金氏の「文師は聖人」という証言は、文師の真実の心、本質を正確にとらえているということになる。興南
収容所に限らず、強制労働や収監の体験を持つ人々の回顧録を読めば、全員が人間であることを忘れてしまうような状況下で、自分を犠牲にしても人を助けようとする人は、誰もが立派な人間であると記している。

ピョンヤンでの逮捕から 興南強制収容所での証言

1、平壌での裁判
2、平壌刑務所に収監
3、興南での強制労働 1948年~
4、金仁鎬氏の証言 「監獄内の聖者 文鮮明氏」




この内容は武田吉郎著 「再臨主の証明」より抜粋した内容です。
詳しくは「再臨主の証明」をお読みください。

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