共産主義の野望を打ち砕く
中米諸国にドミノ式共産化の危機
1985年5月のことである。その当時、文鮮明先生はアメリカ政府の一巡の宗教弾圧政策によりヽ無実の刑でダノベリー連邦刑務所(コネティカット州所在)に収監中であった。
五月五日、私はいつものように文先生の令夫人、韓鶴子女史のお供をして、ダンベリー刑務所に面会に行った。
私はワシントンータイムズ社の社長として、アメリカと世界の情勢を報告するのが日課のようになっていた。
私は、レーガン大統領が提出しかニカラグアの反政府ゲリラ・自由戦士(コントラ)に対する人道的援助案(軍事援助ではない)が、米下院で大差で否決されたことを報告した。
キューバ共産化以後、同国を拠点に共産主義を中米大陸に拡散させようとする運動は、ついにサンディニスタ民族解放戦線のダニェルーオルテガ(一九八四年十一月から大統領)を旗手としてニカラグア共産化に成功した。
ソ連の戦略は、キューバと並んでニカラグアを”革命の基地万と位置づけ、共産主義をエルサルバドル、ホンジュラス、グアテマラなど全中米諸国に拡散して、ドミノ式にメキシコまでも共産化しようというものであった。
メキシコが共産圏に入れば、これはアメリカの喉元に剣を突き付けたのと同じである。
「メキシコの共産化は五年以内に終える」というのがソ連の目標であった。
ソ連はキューバに対してと同様に、ニカラグアにも数億ドルの軍事援助を降り注ぎ、中米の軍事要塞構築に余念がなかった。
(『情勢年鑑1985年版』から)
ところが米議会は、自由回復のために闘争するニカラグアの自由戦士コントラに対して、軍事援助でもない人道的援助(食糧、衣類、医薬品など)千四百万ドル(約三十五億円)を供与しようという案さえ否決してしまった。
これを見れば、その頃のアメリカのリベラル派の雰囲気がどういうものであったかがよく分かる。
特に民主党が多数を占める議会の左傾性は座視できないところまできていた。
この報告を聞かれた文鮮明先生は顔色を変えられた。
獄中にあっても、寝ても覚めても神の願いのみを考えられ、共産主義の拡張をどう防ぐかに苦心焦慮されていた先生は、事態の深刻さをすぐに悟られた。
「このまま行けばアメリカは滅びる。
アメリ力議会がニカラグアの自由戦士を助けられないなら、私か助ける。
アメリカの自由人たちは財布をはたいてでも、コントラを助けなければならない」
そして、文先生は毅然として語られた。
「アメリカの議会議員たちがまず心を入れ替えるようにしなければならない。
普煕、おまえのワシントンータイムズは何をしているのか?
こういうときのために作った新聞ではないか。
私かこの戦い(世界共産化を防ぐ戦い)に命をかけたために、共産主義者の陰謀によって、いま私かここに入っているのではないか。
普煕、おまえは悔しくないのか?
私は獄中においても戦いを続行している。
神様と人類のために負けることのできない戦いだ。
私の前にこれ以上一瞬たりともいるな。
おまえがここに来てくれてもうれしくない。
神様の仕事をするんだ。直ちに出て行きなさい。」
私は切々と伝わる先生の痛い心情に打たれて、黙って涙を流していた。
み言葉が終わるや、私はすぐに立ち上がった。
「お父様! あまりにも至極当然なみ言葉であります。
行きます。
ワシントンタイムズに何かできるかを、(リベラルな議会に)すぐに見せてやります」