文鮮明師、「ソ連帝国の崩壊」を宣言
ブッシュ当選とクエール候補の兵役忌避問題
国際共産主義の総本山、ソ連邦の終焉は、1991年12月25日に正式に確定した。
その年の八月に発生したソ連共産党保守派のクーデターが失敗に終わると、ゴルバチョフ大統領(一九九〇年三月、憲法改正により大統領制が導入され、ゴルバチョフは初代大統領となった。書記長兼任)の手で共産党は解体され、これを機に連邦を構成す
る各共和国が独立を宣言した。
ゴルバチョフはなおも連邦制を維持しようとしたが、もはや虚しい努力でしかなかった。
十二月に入ってロシア、ウクライナ、ベラルーシのスラブ三共和国がソ連邦の消滅を宣言し、新たにゆるやかな「独立国家共同体(CIS)」を創設すると、他の国々もすぐこれに加わった。
そして十二月二十五日に、ゴルバチョフは万策尽きて大統領を辞任した。
これらの歴史的事態が進行しているとき、米レーガン大統領は既にホワイトハウスを離れていた。
ソ連消滅を目の当たりにしたアメリカ大統領はジョージーブッシュ1924~ 在職1989~93)であった。
それよ3年余り前の1988年、冷戦終結への路線を敷いたレーガン大統領は八年の任期を全うし、後継者に道を譲ろうとしていた。
米国策法上、大統領三選は禁止されていたので、後任の大統領に誰がなるのかが最大の焦点であった。
レーガン大統領の政策を引き続き遂行していく、信念と実行力のある後継者が必要とされた。
その後継者として選ばれたのがブッシュ氏である。
ジョージーブッシュ氏は八年間にわたって忠実な副大統領であった。
彼はまた道徳性の高い政治家であり、家庭では良き夫であり、父親であり、祖父でもある。
ワシントンタイムズは彼の実力と反共精神と道徳性をよく知っていた。
第二次大戦当時、海軍のパイロットであった彼は、父島沖で日本軍に撃墜され、九死に一生を得て生還した戦争の英雄であった。
ワシントンータイムズはレーガン大統領が後継者としてブッシュ氏を選んだことを歓迎した。
ところが不思議なことに、米国2百年の歴史上で、現職の副大統領が立候補して大統領になった例はたっだの一度しかない。
したがって、過去のデータに信を置けば、ジョージーブッシュ候補の当選は到底楽観視するわけにはいかなかった。
私はアルノー・ドーボルシュグラーブ編集局長と一緒に、共和党の党大会が開催されるルイジアナ州ニューオーリンズ市に行った。
その日は1988年8月18日、ちょうど私の誕生日であった。
党大会は大抵の場合、四日間継続して開かれる。
そして、最後の日の夕方に大統領候補と副大統領候補の指名受諾演説が行われ、盛大なファンファーレが鳴って犬会はクライマックスに達し、終幕となる。
ところが、党大会期間中に大問題が発生した。
ブッシュ候補が指名した副大統領候補ダン・クエール(インディアナ州選出の上院議員。一九四七~ )が、地元インディアナ新聞財閥の後裔(こうえい)という立場と言論機関のパワー
を利用して兵役を忌避し、ベトナム戦争に従軍しなかったという報道がなされて、アメリカの全マスコミが集中攻撃を加えてきたのである。
共和党執行部は当惑した。
共和党内でも意見が真っ二つに割れ、このまま行けば大統領選の敗北は必至なので、今からでもすぐに副大統領候補を替えるべきだという強力な党内世論が台頭した。
ブッシュ氏は混乱した。
前進しても後退しても困難が付きまとうのは目に見えている。
だが、どうするべきかをじっくり考える時間的余裕もなく、翌日には受諾演説をしなければならない。
ーーこれをどうしたらいいのか?
彼は苦悩に沈んだ。
最初の信念通りにダンークェール氏を信じて出て行くべきか、それとも、この時点で副大統領候補を取り替えるべきか?
これは共和党全体の苦悩でもあった。
私はこの事情を文先生に報告した。
先生はI言のもとに明快な判断を下された。
「今ぐずぐずしてはならない。
ジヨ~ンーブッシュ大統領候補は最初の所信通りに出て行かなければならない。
今、副大統領候補を替えればブッシュは必ず敗北する。
大統領候補として最初に決心して得た結論なのに、世論が少し熱くなったからといって自己の所信を曲げるならば、そんな信念のない大統領に誰が従っていくのか。
腹を据えて、目をつぶってクェール氏を推さなければならない。
こういうときは、度胸を見せなければならない!」
私はすぐにボルシュグラーブ編集局長と相談した。
彼も全く同意見であった。
この結論はそのままワシントンータイムズの所信となり、満天下に明らかにされた。
勿論、ボルシュグラーブ編集局長がわが新聞の立場をブッシユ候袖に伝えたことは言うまでもない。
そこにはほんのわずかの不協和音も見られなかった。